「人気のない駅舎の陰に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた」。不思議なというより、不可解さ、不穏ささえただよう物語の始まりである。しかも、街はコロナ禍で非現実的なまでに緊迫している。
ドイツの大学都市ゲッティンゲンで美術史を研究する大学院生の「私」の元に、9年前の東日本大震災で行方不明となったままの友人、野宮が訪ねてくる。
「私」は野宮を幽霊と受けとめているが、ドイツの多くの古い都市と同じく、時間が多面的な構造を重ねているこの街には、幽霊である野宮もすぐにとけこんでしまう。生者も死者も、過去も現在も、さらに未来までも、いくつもの時空、現実を同時に併存させる文学的方法がマジック・リアリズムなら、この街はその格好のステージといってよい。
しかし、それにしてもなぜ、野宮の幽霊は、震災から9年の後に、震災からそれぞれに生き延びた「私」および友人の前に現れるのだろうか。それは、震災の当事者性にかかわるにちがいない。震災が巨大であればあるほど、当初、当事者性の範囲は拡大する。が、震災に何らかのかかわりを持ち、当初は当事者であった者も、時間がたつうちに当事者から外れていく。それを忘却が加速させながら。
3月のあの日。野宮がいたであろう沿岸部は、激しい揺れの後、過去にない勢いの津波にのみ込まれた。「私」がいたのは仙台市の山沿いに近い実家で、揺れと崩壊の不安に耐えていたが、津波はまったく意識になかった。
同じ震災の異なる当事者性。野宮は戻らず、「私」は自分の当事者性に拠(よ)り、ともすれば震災の忘却に傾く。震災の自分本位の変形と忘却に罪悪感がくすぶるのを強く意識したとき、震災で消えた野宮の幽霊を、「私」は呼び寄せたのだ。
「野宮の時間と向かい合う。その時、私は初めて心から彼の死を、還ることのできないことに哀しみと苦しみを感じた。九年前の時間が音を立てて押し寄せる」。かくして奇異な幽霊の物語は、深い喪の物語となった。
第64回群像新人文学賞受賞作にして第165回芥川賞受賞作である。2作目はさらに冒険的な野心作を期待したい。(講談社・1540円)
評・高橋敏夫(文芸評論家、早大教授)
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